坪内逍遙は近代演劇の父として、また日本ではじめてシェークスピアの戯曲の数々を翻訳した偉大な人物だった。その逍遙がはじめてシェークスピアの『ハムレット』のセリフを聞いたのは、明治九年愛知英語学校においてだった。外人教師、アメリカ人ドクター・レーザムのジェスチャー入りの朗読が、深い印象をあたえた。
人の一生は、人との出逢いによって展開していく。その時より逍遙はシェークスピアを終生離れがたいものとしていた。もともと逍遙は芝居好きな母の実家の血筋を持って生まれた。十人兄妹の末子の逍遙は、母の両親に可愛がられ、年に一度は観劇につれて行かれていたという。東京大学文学部政治学科を卒業後は東京専門学校(早稲田大学の前身)で外国歴史・憲法論の講師となり、この年早くもシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を訳している。
それからの逍遙の創作活動は、まさに八面六臂。小説の革新を唱えた『当世書生気質』をはじめ、次々と書かれた小説や翻訳の数は計り知れない。
実子のいない逍遙は還暦を機に、夫婦の死後は絶家にする決意をした。七十五歳の時には、二十年の歳月を費やした『シェークスピア全集』を完訳している。
墓石は青味がかった伊予石で、まるで庭石のように置いてある。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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