昭和三十四年四月三十日、血を吐いて死んでいるのを発見された荷風は、生前も“奇人”の生活ぶりだった。
本名は壮吉、極端な人嫌いで、浅草を舞台に遊び、粋人の話題をまきちらした。昭和二十九年四月には、千七百余万円の銀行預金通帳を紛失して、荷風は話題の人となった。彼は自分の親族をあまり言いたがらなかった。大正四年にいちど結婚したが、すぐ離婚し、それ以来孤独の生活をつづけた。昭和二十七年文化勲章を受章。
明治三十年東京外語の支那語科を中退、歌舞伎座の狂言作家見習、新聞記者をしていたと思ったら、ふらりとアメリカへ渡り、ミシガン州のカラマスのカレッジで哲学、仏語を専攻。かと思うと、ニューヨークやフランスで銀行家になっている。四十二年に帰国後、『あめりか物語』『ふらんす物語』などを発表し文壇に登場した。そして四十三年には慶応大学教授に迎えられ『三田文学』を主宰、数々の作品を発表した。洗練された詩情と官能は、新ロマン派と高く評価されているが、ストリップ小屋に日参した話の方が、語り草となっている。
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