大正12年菊池寛の推薦で発表した『日輪』は、横光利一を鬼才とまでいわしめた。それ以後は横光・川端時代とまでいわれたぐらい素晴らしい作家として、若い作家や文学青年にもてはやされ、尊敬されていた。小説の神様志賀直哉以上だったともいわれており、川端康成より一歩先んじていた。そのライバルであった川端康成は25年以上も長生きし我が国初のノーベル文学賞に輝いたが、横光利一は病に倒れ一足先に天国に昇ってしまった。フランス文学の大家辰野隆氏は「横光君は天才だ」と言わしめたほど、その頃の知識階級をも一目おいた作家であった。
彼が昭和11年渡欧したときのパリの案内役を買って出たのが岡本太郎であったという。パリの横光には、日本での『文学の神様』を意識して、肩肘張っってコチコチのポーズがあったと、岡本太郎は言っている。帰国後、日本と西洋を結ぶ長編小説『旅愁』が生まれた。主人公千鶴子の知性溢れ田心理描写は、知識人の心をくすぐった大作であった。
彼の墓は正にカミソリに似た黒い自然石である。狂気と天才は紙一重といわれるが、利一にふさわしい墓の姿を見せつけている。
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