現代大衆作家の大御所の筆頭は、いうまでもなくこの吉川英治であろう。
戦後、日本国民が打ちひしがれている時期、吉川英治の『新平家物語』はどれくらい国民を勇気づけたことだろう。
この連載のため『週間朝日』の発行部数はうなぎ昇りだったという。
戦前は徳川夢声の朗読でラジオに流れた『宮本武蔵』も。同様に大衆から喝采を浴びていた。
よくいわれることだが、大衆作家になる要因の第一に、学歴不要論を述べる評論家先生もいる。
大学出の変な理屈づけの、頭でっかちな作家は、大衆に共感を呼ばない。人生の苦悩を知っていないからだとも言われる。
吉川英治も学歴はない。人情の機微を描いた山本周五郎もそうだし、松本清張も大学を出ていない。
要するところは作家としての天分・才知だろう。
吉川英治は小学校を出ただけで、
横浜ドックの人夫・行商人・活版工など転々としながら苦学し、大正10年東京毎夕新聞に勤め、
同紙に『親鸞記』を連載してから、作家としての地位が固まった。
それ以降の作品は、洛陽の紙価を高めたのだった。
出生時、父は貿易会社を営み、かなり裕福だったのだが、家運が傾きだすと酒乱になり、
英治は13・14歳頃から苦しい人生を歩みだした。兄弟姉妹たちもバラバラになり悲惨な大家族の中で育った。
しかし、吉川英治は負けなかった。強く生きる力を持っていた。
苦境を越えてこそ、人生があるのだとする吉川文学の底流がそこにある。
夫人文子さんとの大恋愛は文壇の語り草だが、吉川英治も夫人の内助の功は墓の中からでも感謝されておられることだろう。
墓は建築界の大御所谷口吉郎の設計によって建立されたという。
湯飲茶碗の竿石に吉川英治と記され、台石は黒石で縁取られ、
その中は竿石と同じような白系の花崗岩。芝石は同じ花崗岩で板石としてちりばめられた豪華な墓の姿を見せている。
戒名 |
宗文院殿釈仁英大居士 |
玉垣 |
- |
職業 |
昭和期の小説家 |
境石 |
10cm |
没年齢 |
70歳 |
竿石 |
37cm |
所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
石質 |
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墓の方位 |
東 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
東 |
台座 |
2段・高さ 54cm |
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1987年現在の資料に基づいております。