足尾銅山をはじめ十指に余る数の鉱山を経営し、財閥となった古河市兵衛。
幼くして母を失い、義母にいじめられて育ち、早くに丁稚奉公に出され、あらゆる苦労と辛酸をなめた前半生だったらしい。
十八歳で叔父を頼って盛岡に行き、古河太郎左衛門に出会って二十七歳で養子となる。
養父に代って小野組の生糸買付主任となり、製糸工場、蚕や米穀取引にまで敏腕をふるうが、小野組が破産したため独立して足尾銅山を経営する。
その後足尾鉱毒問題がおこり、政府は明治二十九年十二月から三十年五月二十七日の間三回にわたり、予防工事命令を出す。
三十七項目にわたる細目を厳密に指令し工事が遅延すれば即刻停止という厳しいものだったが、
市兵衛は、異常な決意でこれにあたり、渋沢栄一らの資金調達で危機を逃れた。
やることなすこと大きいことの好きな古河市兵衛。墓石も巨大である。
戒名 |
大照院釈独明大居士 |
玉垣 |
110cm |
職業 |
明治時代の実業家 |
境石 |
40cm |
没年齢 |
72歳 |
竿石 |
142cm |
所在地 |
東京都港区・光林寺 |
石質 |
灰色系 |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
位牌型 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
2段・高さ92cm |
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1987年現在の資料に基づいております。