少年時代は剣道や馬術などの武道に打ち込み、軍人か大政治家を志したが細菌学者となった。
日本初の伝染病研究所を開設するに至るきっかけとなったのは、オランダの医師マンスフェルトの
「医学も男子一生の仕事なり得る」という言葉だった。
明治八年、二十四歳で東京医学校に入学。明治十六年に卒業し、内務省衛生局に勤務した。
明治十八年にはドイツに留学し、細菌学者コッホの門下で細菌学に取り組み、破傷風菌の純粋培養に成功、
さらに血清療法を発見したことで世界に名を知られる。
留学期間が終わり、帰国した彼が決意したことは、日本にも伝染病研究所をつくることだった。
数々の尽力が実を結び、明治二十五年には「大日本私立衛生会伝染病研究所」が設立され、
ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と並んで、世界三大研究所といわれるまでに成長した。
ペスト菌発見や、北里研究所の設立など、伝染病研究に終生を尽くした柴三郎は、“日本のコッホ”と称されたのである。
墓は偉人にふさわしく、聳える巨石で、あたりに君臨しているかにみえる。
戒名 |
- |
玉垣 |
110cm |
職業 |
明治・大正・昭和期の細菌学者 |
境石 |
正面右60cm・正面左10cm |
没年齢 |
80歳 |
竿石 |
太く短い・125cm |
所在地 |
東京都港区・青山霊園 |
石質 |
花崗岩(灰色) |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
巨石 |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
3段・高さ85cm |
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1987年現在の資料に基づいております。