彼が岩波書店を始めた動機は、教育に対する止む事のない情熱からだったといえる。
明治四十一年に東大文学部を卒業した岩波は、翌年、東京・神田にあった神田女学校に教頭として勤務した。
東大出は、ほとんどが官僚の職についていた時代に、岩波はあえて教職の道を選んだ。
日本の教育の中で、女子の教育が最も遅れていると気付いていたからだ。
岩波は情熱溢れる教師だった。終日、生徒の教育に力を注いだが、学校の教育方針に飽き足らず、結局は四年余りで教職を退いた。
そして、彼が選んだのは、社会に役立つ商人の道だった。先輩の意見に従って古本屋を始めた岩波は、翌年には出版を決意。
夏目漱石の『こゝろ』を始め、哲学叢書や岩波文庫などを発刊した。教育に燃やした情熱を、今度は出版を通して人々の教育へと向けた。
墓は地味な五輪塔一基墓で、後方に石のパネルがある。
戒名 |
文猷院剛堂宗茂居士 |
玉垣 |
- |
職業 |
大正・昭和期の出版人 |
境石 |
17cm |
没年齢 |
65歳 |
竿石 |
90cm |
所在地 |
神奈川県鎌倉市・東慶寺 |
石質 |
花崗岩(白) |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
奇型・五輪塔型式 |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
2段・高さ17cm |
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1987年現在の資料に基づいております。