文久元年(一八六一)英国の測量船隊が日本沿岸測量のため神奈川に来訪した。幕府は測量を許可し、『伊能小図』を持たせた。その図が自分たちの測量結果と一致することから、測量を中止し、その図の写しを持ち、帰国したという話が「勝海舟全集」にある。その図を作ったのが忠敬だ。忠敬は十八歳で下総国佐原の大地主・伊能家の婿養子になったが、二度も妻に死なれたり、婿という立場から不遇をかこっていた。
五十歳で隠居し、上京した忠敬は、幕府天文方・高橋至時に弟子入りし、測量を学んだ。寛政十二年(一八〇〇)幕府の命令により、蝦夷地(北海道)測量に出発。その後、十七年の年月をかけ全国測量を行った。その間、忠敬は、昼は測量、夜はデータの計算、製図の準備、天文観測と休む暇もなく作業に没頭した。途中、測量を断念しかけたが、師・至時から「貴殿は天下暦学の盛衰に関わる大業をやっているのだ」と励まされながら測量をし続けたという。
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