日本の画家・詩人。
数多くの美人画を残しており、彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。また、児童雑誌や詩文の挿絵、文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。
世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。
画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。
「竹久夢二」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2010年1月13日 (水) 19:40 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/竹久夢二
戒名 |
竹久亭夢生楽園居士 |
玉垣 |
無し |
職業 |
画家 |
境石 |
無し |
没年齢 |
51歳 |
竿石 |
60cm |
所在地 |
東京都豊島区・雑司ヶ谷霊園 |
石質 |
花崗岩 |
墓の方位 |
南南西 |
墓のスタイル |
洋墓 |
正面入り口の方位 |
南南西 |
台座 |
芝台15cm・下台上台69cm 合計84cm |
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