極限まで無駄を削ぎ、緊張感を生み出すわび茶の完成者。
大阪は堺の魚問屋『ととや』に生をうける。
17歳で能阿弥の茶を継ぐ北向道陳に茶道を学び、その後武野紹鴎に師事した。
織田信長に今井宗久、津田宗及らと茶頭として雇われ、その後豊臣秀吉に仕え、1585年関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてる禁裏茶会を利休はとりまとめ、天皇から「利休」の号を賜った。このことで、茶人としての名声が広まっていったが「北野大茶湯」を最盛期とし、少しずつ距離が離れていく事となる。
1591年に堺に蟄居を命じられ。弟子たちが助命の為に奔走したが、京都に呼び戻された利休は切腹を伝えにきた使者に最後の茶をたて、聚楽屋敷内で切腹。死後も利休を慕う多くの人々が継承することとなる。
利休は今でいえば名プロデューサー。
常に新しい茶道に挑戦し、茶を広める為に数々の茶器をはじめ、壁も茶器も全て金でできた「黄金の茶室」や国宝の茶室「待庵(たいあん)」などの侘び道具の監修・制作を行う。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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