近藤勇、沖田総司の亡き後、その十字架を背負って最後まで戦いに命を託した土方歳三の姿は美しい。もちろん新撰組三羽烏の時代でも、その凄さは殺師の本領を発揮しているけれど、そこには荒々しい土方の姿を見る。
五稜郭の戦いでは、総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人のうち、閣僚で戦死したのは歳三ただひとりだった。八人のうち四人までは新政府に仕えて生涯を終わった。土方歳三は、武士として死に場所を、また盟友近藤、沖田の後を求め、新撰組の一齣を、歴史のページとしたのだった。
土方歳三の略歴は、天保六年武州多摩郡石田村に、農業土方義諄の末子として生まれた。生後すぐ父に死別、兄喜六夫妻の手で養育された。丁稚奉公を経て、家伝の石田散薬を行商、かたわら義兄宅の道場で天然理心流を学ぶ。のち試衛館に寄食。文久三年近藤勇、沖田総司らと上洛、新撰組副長として活躍。慶応四年、負傷した近藤に代わり、鳥羽、伏見に戦う。敗戦後、甲陽鎮撫隊を結成、近藤刑死後も、奥羽、函館と転戦。三十四歳で白兵突撃し命を絶った。まさに壮絶な幕を彼は降ろしたのだった。
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