秀次は、秀吉の姉の子で秀吉の甥にあたる。
武将としての才能にはあまり恵まれていなかったようだが、戦功をあげて近江四十三万石を与えられ、町づくりに尽力した。
芸能を愛する風流人でもあったようである。
秀吉の実子鶴松が夭折してからは秀吉の養子になり、関白となった。
しかし、二年後に秀頼が生まれると、我が子がかわいい秀吉に疎んじられるようになってしまう。
その頃から秀次の奇行が目立ち始め、“殺生関白”と渾名されるような残忍な行いが噂されるようになった。
そして、謀叛の疑いをかけられて、高野山で切腹を命じられ自害したのである。
そのうえ、三条河原に首を曝され、その前で妻子や側室三十九人が処刑されたという。
最近では研究が進み、“殺生関白”というよりは、秀吉に陥れられた悲劇の関白だったのではという意見もあるようだ。
秀吉の逆鱗にふれて詰腹を切らされた秀次。大勢の側室たちと眠る。
戒名 |
- |
玉垣 |
100cm |
職業 |
安土・桃山時代の大名 |
境石 |
35cm |
没年齢 |
37歳 |
竿石 |
120cm |
所在地 |
京都市木川町・瑞泉寺 |
石質 |
花崗岩(白系) |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
3段 |
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1987年現在の資料に基づいております。