榎本武揚は、幕府崩壊後、政府軍への軍艦引き渡しを拒否し、幕府の艦隊を率いて江戸湾を脱走、
函館五稜郭にたてこもり抗戦した“五稜郭の戦い”の主謀者その人である。
北海道独立宣言を公表、後に降伏し、在獄三年、黒田清隆の奔走によって釈放され、明治維新には脚光をあびた人である。
釈放後の彼の人生は、出世街道を突っ走っていった感だ。海軍中将に復帰し、
特命全権公使としてロシアに駐箚、千島・樺太交換条約を結ぶ大役が彼に廻ってきたのを皮切りに、
第一次伊藤内閣の逓信相、黒田内閣の農商務相、文部相、松方内閣の外相と、なんでもこなせるスーパーマンだった。
父円兵衛は秀才の名高く、伊能忠敬の内弟子となり、晩年における忠敬の実測図の多くはこの父の手によってなされた。
いわば学者一家だった。もともとその父は彼を学者に育てようと望んでいたが、幕府令によりオランダへ留学、
彼の人生が幅広く展開していった。中浜万次郎の許で英語を学んだこともあり、語学力は素晴らしかったといわれている。
まさに明治の立て役者であった人物といえるだろう。
戒名 |
- |
玉垣 |
無 |
職業 |
政治家 |
境石 |
30cm |
没年齢 |
73歳 |
竿石 |
130cm |
所在地 |
東京都文京区・吉祥寺 |
石質 |
黒色系 |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
巨石 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
3段・高さ135cm |
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1987年現在の資料に基づいております。