のちに光仁天皇となる白壁親王は、和銅二年(七〇九)に天智天皇の孫として生まれた。皇位継承をめぐる争いに巻き込まれることを恐れ、「酒を縦(ほしいまま)にして迹を晦ま」していたという。
女帝・称徳天皇が亡くなると、白壁親王が皇太子となり、道鏡を法王の座から降し左遷する。白壁親王はすでに六十二歳であったが、皇位を継ぎ光仁天皇となる。しかし、嫡子の皇太子他戸親王と、その母である井上皇后に天皇呪詛の疑いがあるとされ二人とも幽閉され、同時に没してしまう。光仁天皇は12年在位した後、病気を理由に皇太子山部親王(のちの桓武天皇)に譲位する。これは光仁天皇の庶子・山部親王をおす藤原百川の陰謀であったという。光仁は政事では数々の功績があるが、そのほとんどは次の桓武天皇のもとに完成され、その功績も桓武天皇にとられてしまっているという。
しかし、光仁朝において万葉集が現在の形に近いところまで編纂整備されたとの説は有力視されている。
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