淀君はなんと非運な星に生まれたのだろう。彼女は日本女性史のなかで悪女、愚女の典型の如くいわれてきた。秀吉の寵愛をよいことにして、時には異常なヒステリックな行動をしたともいわれている。当たり前なら普通の女性として幸福な生涯を送ったことだろうが、時代が彼女をこうした女にさせたとも考えられる。
信長の姪であり、浅井長政・お市の娘であったから気位も高かったのであろう。秀吉の正室ねねには子供がなく、自分の子が天下人になってどこが悪い、と権力の座が近づくにつれて別の執念が生まれても仕方がない。しかし、この執念が命取りとなった。教育ママだった淀君は、秀頼に帝王学を教えこんだ。これが秀吉の死によって水泡に帰してしまった。そして家康の懐柔策にはまり、正室の北政所と淀君の争いに発展し、演出され、遂には大坂城で息子秀頼とともに命を断ったのである。夫秀吉の栄光は、淀君にとっては“砂の城”であった。
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