数ある博徒の中で、天寿を全うしたのは次郎長のほかにはいない。彼が単なる渡世人で終わらなかったからだ。
青年期、通りがかった僧から二十五歳までの命といわれ、彼の極道に拍車がかかった。人を斬って清水に逃げ出し、渡世人として名をあげたのもその頃だった。反面、実業人としての活躍もあった。天保の飢饉で米を買い占め、大儲けしている。彼には経営の才覚があり、それだからこそ、食客・子分衆に取り囲まれることができたのだ。また、明治戊辰の戦いに、幕府の脱走兵が咸臨丸に乗って、駿河の清水港に仮泊していた。そこへ征討軍(官軍)が攻撃し、咸臨丸の兵は殺され、その屍は数日間も海上を漂っていた。清水の侠客である次郎長はみかねて遺体を収集し、これを葬った。このことが官軍の物議をかもした。次郎長は「敵となり、味方となるのは生前のことで、死んだ後は何も罰することはない。さるに、数日の間其の屍が海上に浮いているのに、之を顧みないというのは、人として忍ぶ能わざる所である」と、タンカを切ったという。
明治に入っても、彼は殺人罪で摘発を受けたが、処刑されることなく、逆に十手捕縄を預かり、街道取り締りを命じられていた。
墓も、大政・小政・森の石松などの子分衆に取り囲まれた姿で祀られている。現在は観光コースになっているが、昔から博徒が縁起を担いで石塔を削っていくため、金網をめぐらされている。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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