1860年3月27日(安政7年3月6日)、大坂新町の妓楼扇屋に生まれる。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。
父は芝居役者の四代目嵐かく(おうへんに玉)蔵(後の三代目中村翫雀)、母は扇屋の一人娘妙。出生直後、芝居を諦め切れない父は母子を残したまま上京。
1863年(文久3年)、四代目中村芝翫の弟分となって翫雀を名乗り、花形役者となる。一方その間に扇屋は没落。玉太郎も父同様役者の道を志すようになる。
1874年(明治7年)、父と並び賞された名優初代初代實川延若の門弟となり、實川鴈二郎を名乗る。名は後に鴈次郎、鴈治郎と改めた。
1875年(翌明治8年)、道頓堀筑後の芝居で初舞台。師延若や中村宗十郎に師事し、時には地方回りの辛酸を舐めるが、着実に力をつけて、1878年(明治11年)には翫雀の後嗣となって初代中村鴈治郎に改め、翌年には初めて座頭を務める。
明治10年代後半になると熱心に演劇改良運動に加わり、1886年(明治19年)には大阪演劇改良会を組織。名実ともに大阪随一の花形役者となる。雛人形のモデルとなったり、「城と御興とガンジロはん」の三大名物に数えられたり、「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と子供の戯れ唄にされるほど、その人気は大変なものだった。
九代目市川團十郎にその才能を認められたことから、1890年(明治33年)、初めて東京の舞台(歌舞伎座と新富座)に上がる。五代目尾上菊五郎に可愛がられて人気を博し、その勢いをかって1903年(明治36年)には中座を太夫元を兼ねて務め、5ヶ月連続上演の大入りとなる。
さらにこの年には白井松次郎を知り、その仕打ちで京都明治座を務め、以後白井との提携により数々の興行を成功させた。
1922年(大正11年)の近松門左衛門二百年記念興行で東京新富座に出て、『河庄』の芸で東京人をうならせ、松竹創成期の伸張と東京への進出に大きく貢献することになった。
1934年(昭和9年)、大阪府芸術功労者として表彰される。同年12月3日、南座の顔見世で『鎌倉三代記・絹川村』の三浦之介を務めている最中に倒れて入院、翌1935年(昭和10年)2月1日に死去した。
戒名 |
玉林院成鴈日扇居士 |
玉垣 |
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職業 |
歌舞伎俳優 |
境石 |
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没年齢 |
1935年2月1日 満74歳 |
竿石 |
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所在地 |
大阪市中央区・常国寺 |
石質 |
御影石 |
墓の方位 |
北向き |
墓のスタイル |
笠付きの供養塔 |
正面入り口の方位 |
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台座 |
猫足 |
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注:右隣は父、三代中村翫雀(歌成院翫雀日龍居士)のお墓。