二代澁谷天外は、本名は渋谷(しぶたに)一雄。
1906年(明治39年)6月7日生まれ。
松竹新喜劇を創立した上方を代表する喜劇俳優、劇作家。
女優の浪花千栄子は元妻。ペンネームは「館直志」(たてなおし)。
楽天会の主宰者,初代渋谷天外の長男として京都市で生まれる。
初代渋谷天外の長男。
8歳で同劇団で初舞台を踏む。父の死去(10歳で死別)後、楽天会は解散する。
しばらく舞台から離れていたが、1922年(大正11年)「志賀廼家淡海一座」に加わる。
1923年(大正12年)から、曾我廼家十郎のすすめで劇作にも意欲的に取り組んだ。
1928年(昭和3年)、曾我廼家十吾、石川薫らと松竹家庭劇を結成し、角座で旗揚げ公演を行う。
翌1929年(昭和4年)、2代目渋谷天外を襲名し、全国的に活躍する。
戦後、1946年(昭和21年)松竹家庭劇を脱退し、劇団「すぃーとほーむ」を結成するが、
1948年(昭和23年)、「五郎劇」、「松竹家庭劇」と合同して、「松竹新喜劇」を結成し、中座で初公演を行う。
曾我廼家十郎、五郎、十吾、渋谷天外、藤山寛美という流れは(演劇表現の上での)保守派と革新派が交互に現れているが、天外は革新派にあたり、実現はしなかったがチェーホフの翻案なども念願していた。
1956年(昭和31年)に十吾は退団するが、自身の弟子的存在で、以後、人気俳優となる藤山寛美とのコンビで人気を呼ぶ。
その後、看板俳優兼作家として大活躍。執筆した作品は556篇にのぼり、合作、脚色もあわせると1000篇を超える。
代表作に「親バカ子バカ」「桂春団治」などがある。
1957年(昭和32年)、「毎日演劇賞」、1964年(昭和39年)、「NHK放送文化賞」を受賞する。
1965年(昭和40年)、松竹新喜劇の人気が急上昇する中、公演中に倒れ、回復後は麻痺が残るも1967年(昭和42年)舞台に復帰する。
その入院中に寛美が多額の借金問題で当時の(株)松竹新喜劇の勝忠夫社長に解雇され、天外も病床にて事後承認をせざるをえなかった。
1968年(昭和43年)、紫綬褒章、1977年には、勲四等旭日小綬章を受章する。
1983年(昭和58年)3月18日、逝去。78歳没。
1992年(平成4年)に息子の喜作(渋谷天笑)が3代目を襲名する。
戒名 |
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玉垣 |
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職業 |
喜劇俳優・劇作家 |
境石 |
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没年齢 |
(二代) 1983年3月18日 78歳 |
竿石 |
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所在地 |
大阪市天王寺区・宗慶寺 |
石質 |
御影石 |
墓の方位 |
南南東 |
墓のスタイル |
神道型 |
正面入り口の方位 |
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台座 |
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