幕末明治初年の大阪の落語家。本名も同じ(明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした)。通称藤兵衛。
近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見され、子孫の過去帳からも新たに出身や背景が確認された。
それによると、生家は大阪市中央区心斎橋界隈にあったらしい。
文献では鍛冶職人と伝わっているが、子孫には家具職人三文字屋で道具も残されている。
また、掛け軸による肖像画も発見されている。妻は名をサトといい、1880年6月22日に没している。
22歳のころ笑福亭梅花門人となり、のち4代目(3代とも)桂文治の弟子となる。
文治一門にすでにこの名はあったが、実績と後世への影響から彼を初代とする。
鳴物入りの噺や音曲の隆盛する時代に、素噺の名人と称えられ、
明治初年、文枝派・川喜派2派競合下にあって有力な人々を傘下に集めた。
没後文枝門四天王と呼ばれた初代桂文之助(2代目曾呂利新左衛門)、桂(月亭)文都、初代桂文団治、
初代桂文三(2代目文枝)たちが大阪の落語界を牽引した。
前座噺「三十石」を真打の噺に大成し、後年その噺を入質した逸話は名高い。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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