宇喜多秀家は、宇喜多直家の次男として生まれたが、父の死後は秀吉に預けられて、秀吉の愛を受けて育った。秀吉の養女・豪姫と結婚し、備前五十七万石藩となるが、徳川家天下の折には島津氏を頼って落ち、死は免れたものの八丈島で生涯を閉じる。島に流されたのは三十四才の時だったが、生を閉じたのは八十四歳。五十年の島暮らしであった。
政治犯であるため、他の罪人と違って島では好意をもって迎えられるが、生活は苦しかったようだ。島人に招かれても、握り飯が出れば家来にと持ち帰ったという伝説もある。
妻・豪は前田家出身だったので、前田家から密かに送られた物資で生活をしのいだ。秀家の家臣・花房からの物資や金子にも助けられ、何とか生計をたてていたようだ。以来、この宇喜多家は幕末まで続き、明治政府の赦しまで二百六十年間家系が続いた。赦しの後は、前田家が丁寧に出迎えている。
八丈島流人第一号といわれ、しかも大物流人としての墓は、苔むして名すら刻まれていないが、かつての支配者の面影を思い起こさせる。
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