伊豆七島が法定流刑地となったのは、徳川幕府になってからである。
江戸から最も遠い島は八丈島で、290km余り。流された罪人は、上は大名から下は無宿人に至るまで数多く、五千人は下らないと伝えられている。
罪人は島に入ると生活を指定され、差配人の差配する小屋に入った。
身分によっては家を借りることもでき、学問のある者は役人の手伝いなどをした。
手に職のある大工・左官などは、その才をを活かしたという。
墓も様々である。身分が高ければきちんとした墓を建てられたが、共同墓地に埋められる者もあった。
歴史に名を残すこともなかった無名の者のために、残された者が仏の好物をかたどった墓をつくっている。
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